学校法人ワオ未来学園 ワオ高等学校

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2022/11/30イベント

【秋の哲学フェス2022】金曜18時のオープン哲学カフェ「『いいね!』を求めるのは悪いこと?」 

フランスの哲学者マルク・ソーテが「考えの打ち合いの場」として始めたという哲学カフェ。

「フランクな場で、もっと気軽に哲学を議論したい」という創始者の思いを継いで、ワオ高校では今までも週に1度、哲学カフェを実施してきました。 

 

そんな「気がつけば考えている自分に驚く」体験を一般の方にも広く味わっていただこうと、「ワオ高・秋の哲学フェス2022」に合わせて、哲学カフェをオープンな場として公開しています。 

 

参加される皆さんには、身近で気になる「問い」に対して哲学者の思想をヒントに考えを深めていくために、「#ジューダイクエスト」として設定した10題をテーマに考えていただきます。 

第6回11月11日(金)のテーマはQ6:『いいね!』を求めるのは悪いこと?でした。 

 

 

今回の問いは、ある意味シンプル過ぎて難しいかもしれませんね。 

提示された選択肢も「A:悪いこと B:悪くない」というシンプルさです。 

初めに確認してみたところ、参加者のみなさんは、ほぼ「B:悪くない」を選びました。 

 

参加者「他人に迷惑をかけていないし、構わないと思う。」

先生「でも、友達から『いいね!してくれよ!』と言われたら?」 

参加者「直接言われちゃうと鬱陶しいかな。」 

先生「心の中で思うのと、口に出して求めるのとでは、どう違うの?」 

参加者「承認欲求は、誰の心にもあるものだと思うし…」 

先生「承認欲求はマズローの『欲求段階説』の中で上位にくるものだね。」 

 

では、「いいね!」を求める心=承認欲求と考えていいのでしょうか。 

 

参加者「コミュニティによっては、生存欲求に関わってくるほど重要な意味を持つこともあるかも…。」 

先生「確かに、アイデンティティや存在価値をそこで確認しようとしてしまうと、不健康だよね。そうなると、悪いことと言わざるを得ないかもしれない。」 

 

逆に、承認欲求の範囲に収まるレベルでなら、健康的なことと言えるのでしょうか。 

 

先生「承認欲求が無くなってしまうとどうなる?」 

参加者「人の目を気にしなくなっちゃう。」 

参加者「社会参加しなくなる。」 

参加者「向上心がなくなって無気力になる。」 

先生「そうだね。人間は、認められたいからこそ愛情に応えたり、目標を実現しようとしたりできる。承認欲求はとても大切。 ただ、それが限度を超えて、いつも他の人より褒められていたい。褒められるレベルに達していなくても褒められないと気が済まない。そうなると、当然不健全。」 

 

ここで、先生からもう一つの視点が提示されます。 

 

先生「『いいね!』を求める時って、承認欲求とは別に自己顕示欲っていうものがあるんじゃない?」 

参加者「間接的に利用する形で扱えるなら、それもあっていいと思う。」 

先生「承認欲求の延長線上にあるものとしては、もちろん健全な領域としてあっていいものだろうね。ただ、それが過度になった時のことを考えると、承認欲求と自己顕示欲は質的に違うように思うよ。」 

 

承認欲求と違って、自己顕示欲はなかなか健全な形に収まりにくい側面があるのでしょうか。 

 

「いいね!」を求める気持ちが 

承認欲求から発生する→密かに(間接的に)「『いいね!』が欲しいな。」と心の中で思う。 

自己顕示欲から発生する→直接「『いいね!』くれよ。」と要求するようになる。 

 

自己顕示欲に焦点を絞ってこの気持ちを考えると、どうでしょう。 

 

参加者「他とは違う何かを求める心。」 

先生「他とは違う=他者と比較してるってことだよね。明確に、特別扱いを求める心なんじゃない?」 

 

ここまで進んだところで、先生からまた一つ、新たな言葉が提示されました。 

 

哲学メモ 

差延(さえん):ジャック・デリダ(フランスの哲学者)による、存在確認の本質を指摘する言葉。 本来フランス語であったデリダの造語を日本語に訳したもの。 

 

先生対象を捉えるのに必要な差(違い)を認識するのには大小の時差が不可欠。差を明確にするには同時性があるわけではないので、判断を先延ばしにする必要がある、ということをイメージするとわかりやすいかな。 

昨日の自分と今日の自分は違う。それをもっと前、例えばワオ高校に入る前の自分と今の自分を比べるところまで延長してみると、もう別人と言えるほど違いは明らか。こういうふうに、比べる基準をずらしてみるイメージ。」 

参加者「今の自分とは明らかに異なる以前の自分は、他者として自分と比較できる対象だということですね。」 

先生「立場を未来の自分に置き換えて『あの頃は、いいね!が欲しかったなー。』と、昔を懐かしむ自分を想像してみると…。 

今は、自分の中のブームとして『いいね!』を求めているだけ。そんな状況を考えた時に、これは悪いこと?」 

参加者「別に悪くない…。」 

 

人間の成長に伴って、承認欲求の在り方も変わってくるということです。このことが、デリダの「差延」という言葉でクローズアップできました。 

ところが、他者に付く「いいね!」の数と自分の「いいね!」の数を比べたくなる=自己顕示欲が不健全に出てくる人がいるというわけです。 

 

前回登場した「イドラ(悪い思い込み、偏見)」を当てはめて考えることもできそうです。 

 

・洞窟のイドラ:生い立ちや性格によって「いいね!」が多い方が偉いと思い込む。 

・市場のイドラ:「いいね!」が多い友人が褒めそやされた経験などからくる思い込み。 

・劇場のイドラ:影響力がある人(インフルエンサーなど)の言葉を信じ込む。 

・種族のイドラ:「いいね!」を求める反応は人類共通のように思えるから、例が見つかりにくい。 

 

参加者「誰が『いいね!』をくれたのかが気になるのは→承認欲求。際限なく『いいね!』を求めてしまうと→自己顕示欲。」 

 

なるほど、そのような考え方もできますね。 

 

人間なら誰しも持っている承認欲求が健全な範囲を超えたところで、自己顕示欲が発動する。このような「いいね!」の求め方は不健全なのでは?という結論になりました。 

 

   

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